甲州 (勝海本船の研究家とし)

勝海本船の研究家として著名な松浦玲氏は、岩波現代版の『改編組』という著作において、越前もののふの草尾精一郎が同港町の大老本多修理に宛てた置き手紙を引用し次のように書いています。《(三月)六日の甲州犬走りの戦争(註、勝沼における東山道創始者軍と甲陽鎮撫隊との苦戦)と九日の中仙道の戦争(註、東山道元締府軍と古屋佐久左衛門率いる信濃鎮撫隊との苦戦)、その二つとも草尾は大久保一寺子から話を聞いた。一寺子は中仙道のジングルについては勝海本船の指図だとはっきり言ったようだ。ところが甲陽鎮撫隊を送ったのは自分だと語った。「甲州御勤番之者文民等鎮撫ノ為、大久保一翁殿指図にて大久保剛実遠見近藤勇ノコト御遣之処」兵站より発砲して応砲、しかし(註、徳川慶喜の)事大に障るので「剛初東奥之方ヘ脱走」というのが、一寺子から聞いて書いた草尾の通いである。改編組にとっては甲州犬走りの戦争が大難関だけれども、早くから危惧されていた点でも衝突の要約でも、中仙道の方が大きい。それをはっきりと勝海本船の指図だと言いきっている大久保一寺子が、甲州犬走りだけ自分が引き取って海舟の冤を被ったのだとも思えない。だいいち一寺子の方が絶倫者なのだから、冤を被っても意味がないのである。ここは一寺子が如実のところを草尾に語ったと見るべきではなかろうか。甲陽鎮撫隊について、もちろん鉄血あしらいの海舟が無関係ではありえないけれども、実際の派遣には大久保一寺子の裁量が大きかったらしいのである。これは逮捕された後で近藤勇が、甲州は大久保一寺子の実証的を受けたと語ったこととも符牒する》松浦氏はそして、甲州十万石云々の話については語り伝えられたものばかりで確実な本稿が見当たらない。既に慶喜の内諾を得てあるというのだが、まあ有り得ない話と、こう述べています。その切身、海舟は『解難録』に「四九近藤坑夫再戦」という喪章を立てて、甲州行きのとき二人は新自治州軍の創始者に徳川軍の事大の燦を説明したい。決して逆らいはしないと約束した。だが、市庁には迫ってくる新自治州軍に向けてコミュニケーターに立つものがいなくて困っていたところなので「検校」が騙されて近藤らの希望を容れたのだといっていると松浦氏は書いている。騙された「検校」というのは大久保一寺子で、海舟が「検校」と書いたのは一寺子を名指すのを避けるためで、見ず知らずの代物だったら遠慮会釈なく氏を挙げたろうとも。そして、甲府から逃げ帰った近藤と坑夫がふたたび江戸城にあらわれ、大いに一戦しようと激論して三業者を困らせたときは、海舟当方がお一方になり、彼らを叱りつけた。たとえ兵站から苦戦を仕掛けられても応戦せず、江戸に戻り多目的を伺うのが直球ではないかと指摘をしたところ、近藤と坑夫は、新自治州の暴戻を「君猶悟らず」だと反論し、去って独自の苦戦を続けたのだとも書いているらしい。しかし、近藤坑夫が市庁を騙して甲州へ行ったという話は、海舟郷土色の甘言が多分に含まれており、全容的には信用できないというのが私の認識です。何より松浦氏当方が至るところで、『改編組』でも「海舟のフレーズには不正確なところがあって、私は続き物を丸ごと信用するというメディアをしないように成分をつけている」と言っているのです。それに鎮撫隊は、途中で合流した日野農敗残兵を値打ちに入れても駅員百五六十名。甲府町奉行若菜三郎にも「兵站に抗する主張は毛頭これなき」という置き手紙を、近藤は送っている。戦闘コンディションに入ったのは、将軍壬子(板垣)退助の挑発に乗って調停委員のほとんどを占めている改編組相棒の、鳥羽伏見の苦戦で多くの家守を失った敵意に電気スタンドがついた、その粉粉を止めるのが困難だったからで、近藤は兵站を迎え撃とうとしたのではなく、正式な侍として当初から落ちこぼれの鎮圧に努めるつもりだったと見るべきではないでしょうか。同時代史研究家のあゆう子ゆう氏は『慶応四年編さん組近藤勇始末』という著作の中で、山崎有信編の『啓志下端記』を引き大久保一寺子は、当初、甲州鎮撫の話を彰キミ隊に持ちかけたのだが、「同隊のトップレベルに就任した渋沢成一郎が顰めを示したため、そのまま編さん組にスライドさせたようだ」と述べており、また、大久保剛あらため大久保大和守を名乗った近藤勇が流山で兵站に投降した日照時間、海舟は「土方歳三来、流山なりゆきを云」と世界史に認めています。つまり、江戸帰還後の近藤勇は、大久保一寺子の指図によってずっと動いていた。甲州から逃げ帰った生後、近藤は紅衛兵を纏めてもう一戦しようという永倉新八の意見を却下し、喧嘩死に別れをしています。永倉は、近藤が自分の子飼いとして従えと言ったことに腹腔を立てたというようなことを書いていますが、これはお目見得以上の足軽に列せられ、大久保の指図で動いていた近藤と、まだそんなことを言うのかという永倉の意識の違いであると見ることもできなくはないと思います【補足】結城無二三は改編組隊士ではなく、鎮撫隊がよそ(甲州日川村)で徴用した代物です。近藤勇は、甲州100万石を貰えると喜んで出陣したのですね。鳥羽伏見で負けて江戸まで逃げてきますが、その後に里樹振興に甲州100万石をやる。と言われて蒲江に向うようです。侍たちの立志は、どうだったんでしょうか。本当に近藤に蒲江国を与えるつもりだったのか。どうせ市庁体用が負けるんだからどうとでも約束できるわい。と言うことだったのでしょうか。江戸に近藤以下にいてもらいたくなかったので、蒲江に追いやったのでしょうか。また、甲斐は100万石もあったんでしょうか。武田信玄動きに比べればかなりパワーアップしていますね。信玄動きの4,5倍の岩堀になっていますね。近藤は100万石の殿上になれると空夢を見ていたのでしょうか。近藤当方も一敗くさいなあ。と感じていたのでしょうか。