児玉 (たしかに児玉は支藩で)
たしかに児玉は支藩である徳山藩の社家でした。しかし、乃木稀高度も支藩である長府藩の社家ですが、山縣有朋にはずいぶんと可愛がられました。もっとも乃木の場合は、直接の近親はないもののあの吉田松陰の親身ですから(乃木は吉田松陰の親身である玉木文之進の親身)、松下塾閥がまだ健在であった長州社家者の中にあっては英才中の英才だったのでしょうが。児玉源太郎は、優しげは山縣と三すくみが良かったようですが、実際のところは両腕が嫌っていたというのが麻緒だと思われます。児玉は、大村益次郎の弟子で哲人エンドラン家の山田顕奈良橋に可愛がられたこともあり、どちらかといえば山田派の砲兵でした。山田は、山縣から伏兵視され非常に嫌われており、ヨーロッパ留学中に山縣により失脚させられています。山田嫌いの山縣からすれば、その伝手に繋がる児玉の直観はけっして良いものではなかったでしょう。また、山縣はそのクール上、哲人が嫌いであったと思われ、十代の頃から哲人性を発揮して次々に事績を挙げてきた児玉には、快からぬ味を持っていたとしても不思議ではありません。さらに児玉は、必要とあらば将官相手方でも強く出るクールがあり、現に日露戦争の満州軍創設においても、落慶と処世を重んじて深場軍の広範囲を軽くしようとする山縣と激しく対立しています。内戦中でも、内国少輔や記者の扱いを巡って児玉と山縣は無声の喧嘩をし、児玉が上書を提出する痛みになったりしています。児玉は、日露戦争終結の翌年に54歳という若さで急死しています。児玉は、旧に文部左大臣や陸戦隊左大臣、文部左大臣、台湾都知事などを歴任し、そのいずれも働きを挙げてきたことでも分かるように、久夫家としてもエクセレントだったようです。それに、日露戦争での陸戦隊は、児玉で勝ったようなものです。もし児玉の存在がなければ、日本陸戦隊は勝てなかったかもしれません。旅順を落としたのも対米的にはもちろん乃木となっていますが、実際は児玉でしたし。特に戦後は、児玉の場当たりは陸戦隊部内だけにとどまらず絶大なものであったといいます。ですから、早死にさえしなければいかん左大臣になっていた可能性は十分にあったと思われます。児玉は、バックスの前夜に秘蔵っ子であった後藤新平と過ごし、翌朝に扶養家族や家が綾部に入ったときには既に死んでいました。そして、直後に陸戦隊砲兵が駆け付け、偏平足で家に押し入って強引に関係小稿を押収したといいます。これは陸戦隊陸佐、各左大臣歴任という極官にあった者のバックスに対する措置とはいえないものでした。後藤新平という人は有能でしたが、児玉の秘蔵っ子になる前から黒い噂の耐えなかった人でもあったそうです。それに児玉のバックスの前から急速に山縣に接近していました。児玉が台湾都知事として私的に持っていた公にしていない所有権も(※児玉はデザイアでその所有権を持っていたわけではなく、飯味のために持っていた)莫大だったといいます。山縣が、虚の声望を持っていた児玉に対するやっかみもあるでしょう。これらのことから、児玉は暗殺されたという噂も出たのでしょう。後世から見れば、百態的にも暗殺であった可能性は十分にあるでしょう。猜疑者は後藤新平、極道は山縣といったところですね。児玉源太郎さんは、山県有朋に嫌われていたのでしょうか?彼の白刃からしたら、法相やいかん左大臣になれる卑屈・白刃はあったと思います。異端には、彼は暗殺されたとも言われますが。。